平家の滅亡(壇ノ浦の戦いを参照)後、鎌倉時代にははじめ源氏の崇敬を受けたが、政情が不安定になる中で徐々に衰退する。神主家を世襲していた佐伯氏は、1221年の承久の乱で後鳥羽上皇側についていたために乱後に神主家の座を奪われ、代わって御家人の藤原親実が厳島神主家となった。厳島神社は1207年(承元元年)と1223年(貞応2年)に火災に遭い、朝廷の寄進も受けて一応の再建はされたものの、戦国時代にかけて荒廃した時代であったと伝えられる。
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戦国時代に入ると、安芸を本拠に勢力を伸ばしていた毛利氏と、衰退しつつこそあったものの周防・長門を領有していた大内氏が対立し、安芸・周防国境はその最前線となる。厳島は周防から安芸への水運の要衝とみなされ、1555年(弘治元年)、毛利元就は厳島を舞台に、大内氏の実権をにぎる陶晴賢を討ち、大内氏を滅亡に追い込む(厳島の戦いを参照)。これ以後毛利氏は中国地方10か国(安芸・周防・長門・備中・備後・因幡・伯耆・出雲・隠岐・石見)を領有する大大名に成長して、のち関が原の戦いで西軍の総大将となる。もともと厳島神社を崇敬していた元就は神の島を戦場にしたことを恥じ、戦後はこの島の保護・復興につとめた。現在の厳島神社の基盤は、元就の社殿大修理によるところも大きい。
1587年(天正15年)、すでに関白太政大臣となっていた豊臣秀吉は、多くの戦で亡くなった者の供養のため、厳島に大経堂を建立するよう政僧・安国寺恵瓊に命じる。本堂に畳が857畳敷けることから「千畳閣」と通称される巨大な木造建築である(重要文化財)。柱や梁には非常に太い木材を用い、屋根に金箔瓦をふくなど、秀吉好みの大規模・豪華絢爛な建築をめざしていたことが伺えるが、秀吉の死により工事が中断されたため、御神座の上以外は天井が張られておらず、板壁もない未完成のままで今日に伝えられている。
考古学的には、町内での建設工事に伴う発掘調査により、菩提院遺跡や祝師(ものもうし)屋敷跡などの遺跡が発見され、中世から近世にかけての遺物が数多く出土している[3]。
幕末 [編集]
尊皇攘夷・公武合体を掲げる長州藩と徳川幕府の対立が頂点に達し、長州征討において厳島対岸も戦場となった。1866年(慶応2年)8月、第二次長州征討の停戦会談が厳島・大願寺において行われた。幕府方代表は勝海舟、長州藩代表は広沢真臣と井上馨。
勝海舟の自著「氷川清話」に、厳島の旅館で勝が毎日髪を結い直させていたというくだりがある。 「おれの首はいつ切られるかしれないよって、死に恥をかかないためにこうするのだ。」 と言うと、髪結いの老婆はすっかり怖がってしまったという。
近代 [編集]
1868年(明治元年)に神仏分離令が出されると、民衆を巻き込んだ廃仏毀釈運動が激化し、厳島の寺院は主要な7ヶ寺を除いてすべて廃寺となった。厳島神社や千畳閣などに安置されていた仏像等も寺院へ移されたり、一部が失われたりするなどしている。
1876年(明治8年)、老朽化していた海上の大鳥居が建て替えられた。これが現在の朱の大鳥居である。
初代の内閣総理大臣・伊藤博文は厳島の弥山三鬼大権現を厚く信奉しており、たびたび島を訪れている。三鬼堂や大願寺の掲額は、伊藤の直筆によるもの。また大願寺境内には、「伊藤博文お手植えの松」が9本残されている。なお、「宮島みやげ」としてのみならず、広島県を代表する銘菓となったもみじ饅頭の起源について、「伊藤博文が厳島を訪れた際に島の茶屋の娘をからかったエピソードを基に発案された」という説が広く流布している(もみじ饅頭の項を参照)。
島の東沖合いにある江田島に海軍兵学校が設けられたことから、神の島・厳島は兵学校生徒の尊崇も受けた。兵学校の訓練の一環として、弥山登山や遠泳も行われており、海軍の幹部にとっては思い入れのある島であるとともに、「神聖な島」というイメージが天皇への絶対的な忠誠という意識を喚起させていたことも、当時の日記などから読み取ることができる。
1889年(明治22年)、町村制により厳島町が発足。区域は厳島全島。
1923年(大正12年)、厳島は国の史蹟名勝に指定され、以後近代的な保護・整備体制が充実していく。
第二次世界大戦中には、厳島の南沖合いの柱島沖が聯合艦隊の泊地となり(柱島泊地)、海軍工廠を持つ呉市や、第2総軍・陸軍第5師団司令部が置かれた重要拠点・広島市の防衛上、周辺海域は重要さを増していた。厳島においても海岸に砲台や高射砲陣地が築かれ、そのうちのいくつかは現存している。
現代 [編集]
日本の敗戦と共に、厳島は連合軍・GHQに接収された。なお、島に棲息していた鹿がアメリカ兵によるハンティングの対象となって絶滅し、神使が失われたままでは困るのでサンフランシスコ講和条約後に奈良公園から移入した、といわれる。
1950年(昭和25年)、瀬戸内海国立公園の指定区域に厳島が加えられる。町名を「宮島町」に変更。
1952年(昭和27年)、「昭和大修理」竣工。
1959年(昭和34年)、宮島水族館が開館。現在では広島県唯一の水族館である。
1991年(平成3年)、台風19号により厳島神社左楽房(国宝)・能舞台(国宝)などが倒壊し、甚大な被害が出る。
1996年(平成8年)、厳島神社が世界遺産(文化遺産)に登録される。同時に原爆ドームも登録された。
2004年(平成16年)、台風18号により厳島神社左楽房・能舞台・平舞台・高舞台・祓殿・長橋・廻廊などが倒壊・浸水する。近年、海水面の上昇が著しく、ややまとまった雨量程度でも浸水の被害が出ており、地球温暖化との関連を指摘する声もある。
2005年(平成17年)11月3日、宮島町は大野町とともに廿日市市に編入される。ちなみに「廿日市市宮島町1-1」は、厳島神社である。